3 十言神呪序説 神に至る道

法絲帖(地の巻)を参照にしてお話しています。 真澄

3 十言神呪序説 神に至る道

Kadota先生
Kadota先生
今回は、十言神呪の序説として、神に至る道についてお話します。
管理人wataame
管理人wataame
神?にいたる道? 私は、神様がどういうものかよくわかりませんし、私は幸せになって私の大切な人も幸せにしたいと思って生きています。
でも、結構苦しいことが多く、自分のことで精一杯のことが多いです。
Kadota先生
Kadota先生
そうだね。私たちは迷える子羊だよね。なぜ迷える子羊なのか考えたことがありますか
管理人wataame
管理人wataame
いえ、ないです。というか、そんなに真剣に自分の幸せを考えてないかも。
Kadota先生
Kadota先生
これからお話することは、人間がどうして生きるのが本当の生き方であるかということなのです。つまり迷わないための生き方のお話と思ってください。
Kadota先生
Kadota先生
どうして生きるかという生き方の中に、無神論者的に、神はいない、この世の最高は人間であるという考え方の生き方があります。

つまり、あらゆるものを自然的な見方をしようとする。確かに人間が万物の霊長であることは間違いないのですが、この世は物だけではないという見方から、終局的には人間の生き方を探るわけなのです。
でそれを探ると、一番大きな問題は、神様とは何ぞやという疑問が沸き起こります。

神が何かということがわかってこないと人間が何であるかということもわかってこない。
同時に、人間が何かとわかってこないと、神は何かということもわかってこない。

我々は人と神との関係を必要とするのです。
管理人wataame
管理人wataame
なるほど、突き詰めていくと私と私以外の存在があるように思います。無神論者でもどこかその存在に、神様の存在を考えるかもしれませんね。
Kadota先生
Kadota先生
例えば、宗教とは何ぞや、と考えると、宗教とは人間と神との関係を人間側から決定づける行為と言えます。
宗教とは単なる教えではなく、行為なのです。もっと簡潔な言葉で言えば、人間と神様の関係を教えてくれるものが宗教なのです。

そこで、私の話を聞こうとする方のために、三統義会というものを作りました。三統義とは以前、一番最初にお話した霊・祭・道の三義を過不及なく、過不足なく備えているという意味です。

人間が神に至る、人間が神に至ることを昔の言葉でいうと格神(かくしん)といいます。格神義、人間が神に格(いた)る道、格神義。格はいたると読みます。

この霊・祭・道を滞りなく行うことが本当の宗教だと、私の神様、大山祇命がおっしゃっています。霊・祭・道はお互いに非常に関係があり、各々に影響するということを、これから十言神呪をお話しているうちに理解してもらえるかと思います。
Kadota先生
Kadota先生
霊・祭・道の三義の関係について、一つ例を挙げますね。神懸かりという言葉がありますね。神懸かりになるとは、神様が来るわけです。
神懸かりという現象はたくさんあります。神懸かりになる時に、神様が人間に付く、人間に降りて来られるということは、人格と品性との上に降りて来られます。

人格が完全ということはあり得ないので、人格が向上しつつある、人格が上に向かっていることが大切なのです。
人格が向上し、品性がだんだん上に向かってきておれば、神様も降りてくるわけです。
だから、神様が付いているのだから修養とか道徳とかということは無視していいのだ、とは絶対にならないのです。
管理人wataame
管理人wataame
神様は不浄を嫌うと聞いたことがあります。これと似ているような気がします。
私が神様でも品性の向上がない人には降りたくないです。
Kadota先生
Kadota先生
霊の道を調べていきますと、霊というものは人間以外の生き物にもあるのです。
蚤(のみ)にも霊あります。

人間がこの世の中で一番高級な霊であることは間違いないでしょう。
それなら人間は神様に近いかというと、これは大変な間違いですね。
蚤やアメーバーのような最下級の霊と人間の開きより、神様と人間の開きの方がはるかに開いています。

人間は神様よりも蚤やアメーバーの方が近いのです。この人間と神様の開き具合はとても開いているのです。
管理人wataame
管理人wataame
例えの蚤の霊も少しかわいそうですが。人間の霊と神様は比べることが出来ないぐらい離れているのですね。
Kadota先生
Kadota先生
だから、私たちは、この霊と祭と道の三つの道を過不及なく努力して究めていくことで、最後は人間をして神に格(いた)らしめようというのが、十言神呪の道なのです。

今回は十言神呪の序説をお話していますので、この十言神呪の説明をお話しますね。
三統義会の目標は、この十言神呪をお話することにあります。お布施や他人に功徳など要求しませんし、ただ、各個人が、十言神呪の神呪を唱え、観法を実施し、霊祭道の道から神に格(いた)らしめようということです。つまり、幸せを享受できるようになります。
管理人wataame
管理人wataame
十言神呪とはアマテラスオホミカミの十の言葉なのですね。特別な呪文かと思っていましたが、古事記や神社で祭っている神様のお名前と同じですね。
Kadota先生
Kadota先生
そうですね。同じ名前ですが、この十の言葉、ア・マ・テ・ラ・ス・オ・ホ・ミ・カ・ミィという言葉を頭に頂く十の神歌を、私は神様から頂いています。

ただ、私たちは、ミが二つあるので、最後のミをミィとして最初のミと区別しています。

十の神歌は三十一文字からなり、アを顕(あ)字の神呪、マを誠(ま)字の神呪、テを用(て)字の神呪、ラを動(ら)字の神呪、スを統(す)字の神呪、オを大(お)字の神呪、ホを小(ほ)字の神呪、ミを三(み)字の神呪、カを幽(か)字の神呪、ミィを休(みぃ)字の神呪と申しています。
管理人wataame
管理人wataame
アマテラスオホミカミにそれぞれ、歌がついていて、名前には漢字も当てられて、なんだか、素敵な感じですね。神歌に俄然興味が湧いてきました。
Kadota先生
Kadota先生
十言神呪には十の神歌があり、さらにその神歌には、観法という作法があります。それぞれの神呪にそれぞれの観法があります。

私は神様からこの神歌を与えられました時には、顕字の神呪が与えられる前に顕字の観法を先に与えられ、誠字の神呪が与えられる前に誠字の観法を先に与えられる、というふうにして、約一年半かかって、神様からお示しを受けたわけです。
管理人wataame
管理人wataame
一つ神呪に1ケ月以上かかって神様から示されたとは、先生ならできたんでしょうね。
凡人の私なら、どれくらいかかることやら。
あ、先生が啓示を受けたので、私は日々の生活の中で十言神呪に取り組んでいけばいいのですね。
Kadota先生
Kadota先生
そうです。今後は各々の神呪の説明を致しますと同時に、この十の神呪が繋がっており、その解釈は立派な哲学的な構成をなしていることを、ご説明することによって、宗教のエキスのようなものを理解していただこうと思っております。ア・マ・テ・ラ・ス・オ・ホ・ミ・カ・ミィの十言神呪を構成する頭文字は、ス以外は霊の道、祭の道、道の道の三つに分かれます。

霊の道はラ・ミ・ミィ、
祭の道はオ・ア・カ、
道の道はテ・ホ・マ
 です。

霊祭道の三つの道は、始まりはすべてオから始まり、それぞれスに向かって上昇していきます。これを組み立てと申します。

組み立ては十言神呪の根幹をなすものなのですが、それぞれの神呪の意味を一つ一つ飲み込んでいただきませんと、組み立ての説明をしてもわからないと思います。

では、次回は、十言神呪の基本となる霊祭道について詳しくお話します。
その後に十言神呪についてお話したいと思います。ありがとうございました。
管理人wataame
管理人wataame
今回、十言神呪の序説を講義してもらいましたが、すでにその奥深さ、スケールの大きさを感じとれます。
また十言神呪は、神様から示されたものなので、ますます有難みがまし、日々の生活を見直す指針になればとも思います。

まさに哲学と表現されることも理解できそうです。
次回も楽しみにしています。よろしくお願いします。
管理人の補足
管理人の補足

今回のお話は、法絲帖(ほうしじょう)の地の巻のp71-72、76-78、81を参照にしています。

法絲帖は、著者は門田博治 発行者は三統義塾、石黒豊信 印刷は中澤印刷株式会社です。残念ながら絶版で、入手が困難な書籍です。

こちらのサイトは、法絲帖を含めて石黒博治先生が発行している三統義会 真澄哲学に関する書籍を忘備録的に書き綴っています。この真澄哲学に興味を持って実践し、人生の幸せを見つけることを祈念しています。

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