5 祭の道

法絲帖(地の巻)を参照にしてお話しています。 真澄

5 祭の道

Kadota先生
Kadota先生
今回は、三統義の祭の道についてお話します。

少し長くなりますが、まず、土地の所有権は神様というお話と光の反射についてお話をします。

土地の本当の所有権というものは神様にあります。
我々が土地を所有しているということは、人間社会での約束事です。
しかし、土地の所有権というのは神様との契約なのです。
だから、土地の神様を祀るということは、本来は「神様のものである」ということを思い出すためなのです。

我々は神様をお祭りしています。
お祭りするときお供え物をします。これは全く同じ意味です。

すべては、本来は神様のものなのです。
神様が何の交換価値や代償を求めないで、人間に与えているものなのです。
米にしても、水にしても、塩にしても、光にしても、みんなあたかも自分の所有物のようにしています。

これは大変な恩恵によって、契約時に自分に与えられているものであるということを思い出すためにお供え物などをするわけです。

水に関しては、真水というのは、全体の水の15%で、85%は塩水です。
さらにその15%のうちの60%までは、北極と南極にあり、凍った状態です。

即ち。全体の水の6%しか真水はないのです。人間が利用できる真水は。
その水は、何のたくらみもなく、太陽の熱によって、海や池、湖から蒸発して雲になり、風に流され、いろいろな場所で、人間の手の届くところに、真水ができるのです。
そういう仕組みのなかで、私たちは生かされています。決して我々が水を作っているわけではないのです。

光についてですが、光とは光線ですね。光線は、我々は教えられなければ気が付かないですが、人間の目には見えないものです。
光線は太陽光線であり、地球上の約75%を被っている雲に吸収され、残った光が空気に反射して明るいのです。
空気がなければ真黒なのです。ですから太陽と地球との間に存在する暗黒、そこには光が充満しているのです。
光が一秒も休みなく、太陽から地球へ光線が通っているのです。
通っているがそこは暗黒なのです。光は衝突して、反射するものだけが眼に見えるわけです。光そのものは絶対に見えない。

神の愛というもの、慈悲というものは、光と全く同じ性質なのです。
ぶちあたって反射したものだけが見えて、本当の神というものは見えないのです。

本当の神というものを見る眼を持とうとすれば、その反射する光線を見る力をもたなければならない。そのためにお供えものを捧げるわけです。
このお供えものとなってくると、米となり、果物となり、野菜となってくる。

そうすると、そこにちょうど光線が反射したと同じ状態ができてきます。また、暗闇であっても、暗黒であっても、その暗闇の中に光がないわけではありません。
光は充満している。けれども、暗黒は存在します。そこで我々はどうしたらその光を、暗黒の光りを明るい光に変えることができるかと言えば、光を反射させればいいわけです。

明るさというのは反射しただけの明るさなのです。だから、神様の場合、反射するというのは一体どういうことなのでしょうか。
神様の愛をどうして自分の所で反射させるか。誰でも説くところですけれど、「感謝の心」ということです。

「合掌の心」というものです。合掌とは、説明すれば、こうこうであるという理屈が成り立ちますという心を全部捨てた姿なのです。
その合掌の心に自分の魂を反射板にして、今まで暗黒である姿は照らされた明るい姿に、光明の世界に変わってくるわけです。

だから、光線というものは反射させなければ目に見えない。だから神の愛も合掌の心ができた時だけ見えるものであって、合掌の心ができない時には、いつまでたっても見えないものなのです。
管理人wataame
管理人wataame
契約、感謝等いくつか心の中にキーワードがでてきたと思います。とても良いお話だと思います。
Kadota先生
Kadota先生
では祭の道について、お話します。

まず、祭りとは、キリスト教の「新約聖書」を知っていますよね。
内容は知らなくてもその言葉は聞いたことはあると思います。

英語で申しますとNew Testament(ニュー・テスタメント)といいます。
テスタメントとは契約という意味です。

「旧約聖書」というのは、昔からある人間と神様との契約書です。
それをキリストが現われて、人間と神様と新しい契約を結んだ。
それが「新約聖書」です。約とは契約の意味で、約束事です。

ですから、祭りというのは、人間と神様との間の契約を行うということなのです。

だから我々は平生この神様を祭ります。

何故祭るのかいうと、これは人間と神様の契約だからなのです。

キリスト教では十字架以外は拝みませんよね。これも人間と神様との間の契約なのです。
我々は、神籬(ひもろぎ)を立てます。これも人間と神様との間の契約なのです。大祓詞を上げるのもそうです。
管理人wataame
管理人wataame
なるほど、人間と神様との契約、約束事なのですね。
儀式にはそういう意味があったのですね。

でも何故、約束事を祭りというのですか。
Kadota先生
Kadota先生
人間と神様との間の契約を行うことが何故、祭りというのかと申しますと、人間が神様に対する約束がある代わりに、神様も人間に対する約束があるのです。

だから、神様が契約を実行される、人間がその契約を同じように実行することで祭りになります。

ただし、神様の方が人間より余計に、また正確に約束を行っています。
管理人wataame
管理人wataame
神様と人間のお互いが約束を守っていることが祭りということは理解できましたが、祭りという漢字のイメージが約束のような意味をもつことにちょっと違和感があります。
Kadota先生
Kadota先生
そうですね。
祭りとは「まつり」であり、「まつり」は「真釣」という漢字を書きます
祭りとは「真釣り合い」なのです。

どちらへも傾かない。神様の側にも、人間の側にも傾かない。
ですから神様が今何をしておられるかということは、別の言葉でいえば、神様の真似をすることなのです。

それが祭りです。神様の真似をすればいいのです。

私たちはこうして神様を拝みますね。
その時神様はそり返っているかというとそうではなく、神様は拝んでおられるのです。我々を。
だから神様の真似をすればいいんです。それを惟神(かむながら)と言います。

惟神というのは、神様の真似をするということなのです。

神様のまま、神様の真似をする。神習うです。
神様の真似をする。
だからこういう祭りをしますというと、それは契約によって、神様の真似をすることなのです。
いろいろなお祭りでも、契約によって神様の真似をしないお祭りは祭りではないのです。
管理人wataame
管理人wataame
祭りは真釣り合うなのですね。納得です。
言葉は奥深い意味が隠されているのですね。

なんだか暗号のようで面白いですね。
でも、そうすると、今世の中にあるお祭りは、音をならしたり騒いだり、一部では喧嘩したり、神様の真似をするといった意味からは外れているようにも思います。
Kadota先生
Kadota先生
今wataameさんがお祭りについてお話したことは、宗教的時間と考えます。
宗教的時間ではあるが祭りではないです。

神様の真似をしているわけではないから。
神様のなさる通りのことをする。

神習うことが祭りなのです。
管理人wataame
管理人wataame
祭りとは、神様のなさる通りのことをする。

神様に感謝の心をもって、神様を祈ることなのですね。
祭りとはお祭り、楽しい行事のように思っていました。

少しは神様のことを考えると思うけれど、神様を祈るということは置き去りにしていたように思います。

祭りの意義を講義していただいてありがとうございました。
Kadota先生
Kadota先生
次回は、三統義の霊祭道の最後の道の道についてお話しますね。
ありがとうございました。
管理人の補足
管理人の補足

今回のお話は、法絲帖(ほうしじょう)の地の巻のp87-91、73-75を参照にしています。

法絲帖は、著者は門田博治 発行者は三統義塾、石黒豊信 印刷は中澤印刷株式会社です。残念ながら絶版で、入手が困難な書籍です。

こちらのサイトは、法絲帖を含めて石黒博治先生が発行している三統義会 真澄哲学に関する書籍を忘備録的に書き綴っています。この真澄哲学に興味を持って実践し、人生の幸せを見つけることを祈念しています。

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